清原500号を祝う

ロックとクラシックとでは、根本的に楽しみ方が違う。
クラシックは完成された音楽を楽しむもので、ロックは音楽が完成する過程を楽しむものだ。
クラシックコンサートは、指揮者がタクトを持って指揮台に立った瞬間に音楽が完成している。
客は、完成された音楽がどう演奏されるかを聴く。
それに対してロックは、ロックンローラーがステージに出てきた時点では音楽になっていない。
ギターの音がなってもドラムの音が鳴っても、音がしているだけで音楽にならない。
演奏だけじゃない、彼らの容姿、発言、さまざまな要素が一本の線になった瞬間、始めて音楽が完成する。
客は、その瞬間を体験する。
似た関係に、プロレスと格闘技がある。
格闘技は、戦闘意欲を持った人間がリングに立った瞬間完成している。
どっちが勝とうがどんな試合だろうが、それは格闘技として成立する。
プロレスは、そうはいかない。
裸の男達が、殴り合ってもプロレスは成立しない。
試合までの因縁、レスラー達の人生、試合の流れ、さまざまな要素が一本になって始めてプロレスとして成立する。
ロックやプロレスはこういう性質上、成り立たない事も多々ある。
そうなると、単なる雑音、単なる裸踊りになってしまう。
しかしその目を覆いたくなるような惨劇が、次への前フリとなってさらに大きなカタルシスを生み出す要因になる。
もはや、エンターテイメントというより一大ドラマの様相だ

清原は、ロック的、プロレス的だ。
清原のバッティングは、一球単位では語れない。
前の球、前の打席、前の守備、前の試合、前の対戦、連綿とつながる因縁と由来の上に成り立っている。
もちろん、清原の一大ドラマはホームランで完結する。
ヒットや三振は、ホームランにつながる前フリでしかない。
ホームラン以外は、清原にあらず。
その域まで野球を昇華させた清原は、もはや芸術家だ。